思い出や過去のエピソード

f:id:wonderfulperson:20230212200325j:imageこの年にもなればなんの違和感もなく親と対話をするわけだが、親と話してふと疑問に思ったことがよく年を重ねると"体力消耗"とか『若い頃より動けなくなってキツい』と言うが、いろんな苦労や逆境を乗り越えてきていて子供のようにぎゃ〜ぎゃ〜😭と泣くわけもなく精神的に強くなってるに決まっている。肉体と精神は密接に深くつながっているのだから、その場合だとプラマイゼロで結果的に体力消耗してても精神で補えるのではないか?と言う結論に辿り着いた。さらには知識も豊富になればなるほどに体力による消耗を補えると言う点だ。頭で働くか体を動かして働くかという例えがあったりもするが結果的に知識で仕組みを作ったり仕事の効率化を測るために試行錯誤して結局それまでは体力の消耗も見込めるため頭で働こうが体で働くかは速いか遅いかの問題になるのでそれを理由に体力消耗したから生きるのが辛いと定義するのはあまり当てにならない気もする。まぁまだ若い部類にはギリ入ると思うので健康には気を遣いたいところだ。そんな問題を解決した後に親と幼い頃の話をして気付かされることが多々あるがやはり自分は鈍臭いことをするという点だ。昔から天然と言われただけあって案外間違いではないかもしれません。小さい頃に大事な式典があったときに一人で急にステージによじ登ろうとしたり、海に遊びに行った際には毎回服をびしょびしょにするのが当たり前で少し奥に行って波🌊のところで転んだりする面白いエピソードを聞いたり。スーパーの飲み物はその場で開けて飲み始めるから買わざるを得なくなったり、あと不潔な話をすると変に潔癖症だったのか、オムツからあるもの💩を手で取ってそこら辺に投げたりして、いとこのお母さんがふんだりしたっていうとんでもないエピソードがある。これは黒歴史として保存しておこう。このように過去を振り返ってみると意外にも知的好奇心は旺盛だったみたいだ。そんな純粋な子供心は大人扱いされる今になっても失いたくはない。もちろん世間体や同調圧力に物理的に逆らうのは難しいが、心の奥深くでは今でも子供で居続けたいと密かに思っている。まるで心のどこかに秘密基地を作ってひとりの時間を作ってはそこに居座ろうと意識しているように。子供時代を振り返るとより一層リアルな自分の姿を知ることができるかもしれない。学生時代に何をしていたか?どんな友人と過ごしたか?など事細かく自信を知る手掛かりになる。やはり学校は客観的にみた周りの視線や人との関わりによるコミュニケーションができるためコミュニティーとして必要なものに違いないと実感できる。