尖っていても丸くなればダイヤモンド💎が作れる

f:id:wonderfulperson:20230219114721j:image人間は尖ったり引っ込んだりしてそれを繰り返しながらときには謝罪会見を開き多目的トイレで全て綺麗さっぱり流すのも可能でいろんな複雑な家庭事情や目の前で起きる複雑な事象にもときどき犠牲になったり誰かに頼ってなってもらったりの取引や支援や援護を繰り返して人間関係という名の人とのつながりあるコミュニティーが確立してきた。それは決して良いとか悪いとかの一方通行ではなく、二車線でいつでも移動は可能だ。もちろん人との衝突を恐れて控えめに生きるのも手だが、誰もいない真っ直ぐなところではマリオカートを楽しみたかったりもする。もちろん規制範囲内で。そんな人生を誰もが受け入れて直視して生きてこれた。それはトゲだらけでチクチクして見るからに痛そうで近寄りたくない。こんな投稿も信じがたい実態や抽象論を並べられたら今にも車線変更どころか一旦停止して止められない自分の思考回転のギアをみながら皆がこう言う。『コイツ脳内錆切ってる』って。脳内のアクセルが200kmまで出るなら常に出しときたいが、法に触れたくはないがもしアインシュタインなら早すぎても相対性理論を用いて『早すぎてゆっくりに見えるから問題ないよ!』の一言で大衆を説得するのだろうか?みんなから軽蔑されるくらいなら控えめに生きるのも悪くなかったりもする。そのため尖るのをやめて丸くなろうと決意すれば人はそこから若気の至りから脱却して"美"という人間らしさというかかっこいい立派な人間が確立するだろう。それで世間体を意識しながら削っていくがあまりにも尖りすぎたら出過ぎた杭は打てなくなるのと同様に一つの過去の過ちや罪として取り残されるだろう。コレは今まさに表現しているダイヤモンド💎の形成についてだ。最初は尖っていてもしょうがない。人間は何かを求めたり必要とするあまり本来の目的を見失ってしまうことは多々あるし、そのために犠牲を出しても違和感なく衝突事故を起こしてしまうものだ。もちろん大破するのは人を失うからそんなことはしたくない。でも現実で気づきにくい些細な一言や行動で人を犠牲にすることを受け止めて、何か形を変えて還元できないだろうか?そうだ。尖っているならそこから削り落としていって58面体を作る意識をしようと。でもダイヤモンド💎を形作るのは難しい。めちゃくちゃ繊細に微調整が必要だ。スポットライトを今当てれば夢の途中だから非難や賛否両論で批判が殺到する。先程の投稿同様に人は変化を無意識に嫌っている。だから否定はあって当然だが、大丈夫だ。僕らは尖ってきた分、現実を直視してきた。反抗期は今も続いているのかもしれない。どこまで細かく削って形作りを意識してるかは今までの投稿を見れば一目瞭然だ。少しずつ微調整をしていて、最後にある程度の希望や期待が世間からあり、自信にまでつながればそこでスポットライトを当てて、キレイなダイヤモンド💎をみんなに見せて、そして叫ぼう!『これが俺の人生だ‼️』